松竹歌舞伎座二月大歌舞伎『壇浦兜軍記~阿古屋』もはや坂東玉三郎でこの芝居を見ることはできないだろうな、そう思っていたので、観劇できたのは幸せだった。一人の役者を50年見続けられたこと。そして、その役者の至高の芸に触れられたことに感慨深い。
『阿古屋』がまるでギリシャ悲劇に
『壇浦兜軍記~阿古屋』通称『阿古屋』
夫景清の行方を詮議される、景清の子供を宿す傾城 阿古屋。
その詮議に、琴、三味線、胡弓を奏でろと。
その演奏の乱れで、詮議をするというお話。
女形の最高峰のお芝居である。
なにせ、3つの楽器の演奏をこなさればならず。
その中で、恋しい景清への思い。
とにかく、難しく現在この演目をこなせるのは、坂東玉三郎だけと言ってもいい。
ただ、玉三郎自身年齢的なこともあり、主戦場を大劇場の一ヶ月公演からは距離を置き
たいところ。
でも、ドル箱を松竹が、ほっておくわけもなく。
ここのところ、大劇場に登場する機会が多い。
おかげで、『阿古屋』を観劇できるのだから、嬉しいのですが。
15歳のときに歌右衛門さんの『阿古屋』を初めてみたのが15歳のとき。
とにかく、3つの楽器の演奏の終わりに、ものすごい掛け声が、かかったの覚えている。

「劇進行の妨げになる大向う、掛け声はご遠慮ください」
開演前に何度か、アナウンスがあった。
かつて、割れんばかりの掛け声の中で、『阿古屋』を見た私には、以外だった。

花道の出から、劇場を支配する存在感。
彼の父、守田勘弥は、花道に登場すると、劇場の雰囲気が一変してしまう力があった。
その時の役者の華というものとは違う。
『阿古屋』の玉三郎は、花道に登場した時、セリフはもちろんないが、劇場をたった一人の役者が、支配している。
まるで、その一挙手一投足に息を呑むような。
それが、このお芝居全体を支配している。
そう、つまりもはやただ三つの楽器を朗々と演奏し、大喝采を浴びるだけと思われるお芝居を、「ギリシャ悲劇」のごとく昇華している。
だから、「大向うは終演の時だけ」ということになるのだろうな。
松竹としたら、ドル箱。
なので、あの苦しいアナウンスに。
坂東玉三郎まさに頂点にいる
もう、歌舞伎役者という範疇を超えている。
初めて玉三郎を見たのは、50年前、中学生の頃だった。
あの頃は、今ほど評価は、高くなかった。
容姿が優れているので、それに頼りすぎているとか。
大柄な体つきが、女形に似つかわしくないとか。
演技に丁寧さが足りないとか。
そんな劇評を見た覚えがある。
それが、変わったのは、鶴屋南北の作品に出たあたりだろうか。
『四谷怪談』『桜姫東文章』そして、『三人吉三』
悪女を演じることで、大きく変わった。
そして、『京鹿子娘道成寺』での神がかった踊りで、押しも押されぬ地位に。
現在の玉三郎は、大劇場の一ヶ月公演は、退きたいと思っているはず。
年齢的に、できる、あるいはやりたい舞台を厳選してと思っているはず。
ただ、周りが、それをゆるしてくれないのだろう。
もはや、歌舞伎役者という範疇を超えてしまった。
芸術家。
だとすると、いまが歌舞伎役者として彼をみる時。
今が頂点だと。



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