内藤瑛亮監督のコメントが作品のすべてを物語ってます。
“「最初にプロットを書いたのは、2011年の夏でした。自分が小学校高学年の頃に起きた山形マット死事件に着想を得た企画です。
商業映画として成立させるため交渉を続けましたが、進展は得られませんでした。
2015年に川崎市中一男子生徒殺害事件が起き、制作への思いが高まりました。
2016年に自主映画として制作することを決意し、2017年の夏、年末年始、2018年の春にかけて撮影を敢行しました。1年に及ぶポストプロダクションを経て、2019年夏に完成しました。
遠回りしましたが、時間をかけたからこその濃密さが作品に詰まっています。
2020年5月、ついに観客の皆さまへ届けることが出来ることを嬉しく思っています。」”
(オフィシャルサイトより)
彼は、コメントにあるように、長年暖めてきた思いを作品として、見事に表現してくれました。
彼の様に、社会の抱える大きな問題に正面から取り組んでくれる監督が、今の日本にどれほどいるでしょうか。
1995年に地下鉄サリン事件を引き起こした、オウム真理教を誰か映画化したでしょうか。
あるいは、1976年の現職の首相が逮捕された、ロッキード事件を誰かその真相を探る作品を世に問うた作品が、あるだろうか。
わざわざ、これを作品として製作費と時間をかけて作る必要があるのだろうか、そんな思いにさせられる作品のなんと多いことか。
そんな中で、内藤監督は目の離せない監督だ。

いじめはなくならないのか?
作品を見ていると、こんな問いがいかに不毛かとあらためて感じてしまう。
人間である以上、ねたみや嫉妬からはのがれられない。
大人は、ある程度社会生活を送る上で支障のない様に、コントロールしてるだけだ。
それが、中学生という年代でいかに難しいことか。
ほとんど絶望的だ。
でも、現場の先生はそういうわけにはいかない、その苦闘は想像するにあまりある。
問題解決のための子どもたちの話し合い。
そこからは、大人に受け入れてもらえる答えを絞り出す生徒達の姿、日本の教育現場がかい間見える。
平等幻想からそろそろ目覚めよう。
戦後民主主義教育を受けてきた者にとっては、「人間は平等である」この言葉に縛られてきた。
特に、公立学校では錦の御旗である。
この考えを否定するわけではないが、残念ながら、人間は生まれながらに平等ではない。
人間個人の有する権利、選択の自由、出自による差別の根絶、そういう意味では、平等である、いや平等でなければならない。
義務教育の限界。
高校生になれば、受験によってある程度選別され、同じ知的レベルの者が一同に介する様になる。
しかし、義務教育、特に公立の中学校では、あらゆるレベルのものが同じ空間を共有する、つまり、逃げ場がないのだ。
レベルのの違いは、多くの妬みや、ひがみ、負のエネルギーが蔓延する。
小学校であれば、まだ教師による大岡裁きができるだろうが、中学生ともなるとそれも効かない。
まして、昔の様に体罰は絶対禁止。
ある程度高校のように、住み分けではないが、私立中学の様なセパレートが必要なのでは。
しかし、義務教育はあくまで平等でなくてはならない、大原則がある。
そんな中で、教師は一体どうしたら、解決のできない負のエネルギーは、この作品のように爆発する。
行動に移せば、すべては終わり。
それを、この作品はいやというほど、見せつけてくれる。
少年法の改正、厳罰化が必要との論争もでるだろう。
しかし、その前にこの大原則を解らせることが必要だと、「行動に移せば、すべては終わり」。
その代償は当然のごとく、加害者に。
そして、悲しいのは、被害者がその被害の悲しみ以上に、社会から痛みを受け続けるという、不条理。
ただ、やるせないではすまされない現実がそこにはある。
ネット社会の匿名性という暴力
作中では、嫌と言うほど、その怖さが浮彫りにされている。
人間とは、匿名ということで、ここまで、暴力的になれるものか。
まさに、ネット社会のその負のエネルギーは凄まじい。
私たちは、そんな社会に生きているのである。
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