『エドガルド・モルターラ』ある少年の数奇な運命というには酷な話

映画『エルガガード・モルターナ』ポスター 映画館

映画『エルガガード・モルターラ』ある少年の数奇な運命と言うには、あまりにも信じがたい。だけどこれが、歴史の真実なのだと。宗教というのは、ときとして暴力的になるという見本のような作品。人間とは、本当に罪深いものである、だから信仰が必要。

信仰という暴力

キリスト教がこの世に誕生して約2000年。

キリスト・イエスが、殉教すろところから、その弟子達が、宣教を始め。

やがて、使徒パウロの時代にローマ帝国の国教にまで上り詰める。

人々に永遠の命を与え、あらゆる罪から開放する。

なのだが、いかんせんそれを広めるのは人間。

そこにあらゆる罪が、入り込んでくる。

なぜなら、人間は罪を侵さずには生きて行けないから。

イエスの教えと相反することに聞こえる。

そう、相反すること。

ただ、イエスが言っていたのは、罪から離れていなさい、互いに愛し合いなさい

この言葉を実践するはずの教会。

初代教会を起源とする、ローマカトリック。

この映画は、この大きな神の教えの実践の場で起こる罪の数々。

そして、その一端に焦点を絞っている。

漁師

権限の集中するローマ教皇

この映画でさえ、この時代の教皇が、もう少し柔軟なら、こんなことには。

そんな感想しかない。

ただ、その権限が最大限に達し。

その腐敗から改革の洗礼をうけるまで、教皇は頑なだった。

ローマ・カトリックの最高責任者、聖職者でさえこの有様だ

もともと人間に、権限と尊厳を与え奉ること自体キリスト教てきではない。

カトリック教徒でない私にとっては、どうでもいいことなんだけど。

初代教会から始まった信仰が、特に礼拝において、儀式化しているのも興味深い。

まあ、プロテストだろうと犯した罪は、一つや二つではない。

この映画の意味するもの

だからといって、キリスト教は間違いだと言っているわけではない。

ただ、人間は、たとえ洗礼を受けたものであっても、その罪の性質から逃れられるものではないこと。

ただ、これだけである。

それにしては、この映画の主人公は気の毒だ。

ユダヤ教の家に生まれ、ただ、お手伝いが勝手に洗礼を施したために、人生を狂わされてしまう。

その身勝手なお手伝いさえ、嫉妬や恨みに駆られて勝手にしたこと。

そんなことでと、映画を見ていて悲しくなる。

なにせ、魔女裁判や聖地エルサレムの奪還と称して、十字軍を送り出したくらいだから。

異端をその教えから救い、永遠の命を与えるといって、子供を家族から奪うことくらい朝飯前。

そんな、歴史の事実をどうか、映画で確かめてください。

そこには、キリストの愛もなければ、神の慈悲もない。

ただ、人間のよこしまな考えが支配しているだけだ。

だから、キリストの教えは間違っているなどと言っているのではない。

歴史の事実と宗教という暴力について、しっかりと認識していただきたいだけです

映画『エルガルド・モルターラ』公式サイト:https://mortara-movie.com/

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