同性愛の少年の苦悩を描く『ある少年の告白』アメリカらしい問題提起

映画『ある少年の告白』のチラシポスター映画館

アジアだったらここまで深刻にならない。

もともとアジアは同性愛に対して寛容な文化である。

どちらかというと同性愛が日本でも嫌われるよになったのは、明治以降だと言われている。

文明開化で欧米化を目指した政府がそれを禁止したためで、キリスト教の影響が強いとされている。

それまではというと、寛容なというかおおらかな文化であり、人口にたいして常に一定の割合で同性愛者は存在するもので、特にそれを特別視しない、まあそんな嗜好の人もいるという感覚だったのである。

だから、この作品の少年のように自分の性的嗜好で悩むというのは、あまり考えられなかったことなのだが。

キリスト教文化圏以外ではこの作品の主人公のような悩みを深刻にとらえた作品はあまりお目にかかったことが無い。

少年の父親がバプテスト協会の牧師という悲劇的環境

少年が、ここまで悩む要因の大きな原因である。

バプテストとはキリスト教の一派でアメリカ最大のキリスト教グループである。

その歴史は古く、アメリカ開拓時代ヨーロッパから移住してきた。

その起源は諸説あり今でもはっきりしていない。

いわゆる、プロテスタントと教義的には非常に近いのだが。

プロテスタントはルターの宗教改革によりカトリックから分派したグループであるのに対して、バプテストはもともとから、カトリックとは違う流れのところに存在していたと主張する。

バプテストの特徴は、根本主義といわれるよに、聖書第一とする考えである。

つまり、聖書に書いてある言葉は、神の言葉でありそれに一時一句たりともたしてもひいてもならない。

そして、その神の言葉を日々の生活の指針、信仰生活の中心におくことである。

少年にとって不幸だったのは、聖書の中に同性愛を禁じる文言があることである。

少年の父である牧師にとっては、息子が同性愛者であってはならないのである。

聖書で同性愛を禁じる箇所とその解釈

旧約聖書にも確かに同性愛を禁じる箇所はあるがそう多くはない。

むしろ、新約聖書のパウロの書簡の中に何度も執拗にそれを禁ずる文言が出てくる

これが、キリスト教が同性愛を禁ずる大きな理由なのだが。

ローマ帝国の時代にイスラエル地方の一つの信仰に過ぎなかったキリスト教が、ローマ帝国の国教にまでなったのは、この使徒パウロの働きによるもである。

当時、ローマ帝国では同性愛は日常的であり、当時の地中海芸術文化の中にもその影響は色濃く残されている。

パウロはそれを嫌ったのである、確かに種の保存という、聖書の教えからするとはずれてはいるが、今日でも同性愛者を悩ます根元は、パウロの働きに拠るところが大きい

だだ、聖書の中では、誨淫や不品行の罪と同列で語られる事が多く、とりわけ同性愛だけせめているのではない。

しかし、アメリカ社会を見てみると、いわゆる不倫や不品行については、なんとなく寛容なのに、同性愛は別の次元のものとして扱う傾向が強い

以前、クリントン大統領の不倫問題が出てきたときを思い出してほしい。

社会は、とくに男性側は、なんとなく容認する空気があったのでは。

同性愛矯正施設という信じられない施設

これが、現在でも一部の州で存在することが驚きである。

この矯正施設コンバーションセラピーを禁止しているのは、2019年の時点で18の州とワシントンDC、プエルトリコだげである。

それも、精神医学的に問題解決を図るのではなく、聖書的ではないから、聖書の教えに従って非科学的な方法で。

その実態は、是非作品をご覧ください

日本ではどうだろう、本人が望めば精神科の治療にたどり着くかもしれない。

しかし、その治療は時間と費用もかかることもあるということ。

そして、なによりもそれをできる精神科医なり臨床心理家は極端に少ないこと。

そして人によっては、かなり困難であると言われています。

つまり、人を作り直すというか育て直す作業になり

では、いままでのその人は何処へ行ってしまうのか、という問題にもなる

一つのパーソナリティーにかかわるというのは、そう簡単なことはない

同性愛という問題の裏にそうなるべくしてなった必然があり、大きな問題があったりする

だから、へたに専門外がこの問題にかかわると映画の様な悲劇的結果を生む危険性があるのです。

同性愛かどうかどうでもよいと思える時が来る。

人間歳をとり、押さえきれない欲望の時代をすぎると、同性愛かどうかなんてどうでもいい問題に思えてくるものである。

それより、一人の人間としてどう生きたか、どう生きるのかが大事になる。

映画の中で、最後に少年の味方になり彼を救うのは母親だった。

彼女は、人として生きてゆくことの大切さを知っているからだろう。

父親の方は、やはり牧師という肩書。

肩書というと、怒られるが彼らは神様からの召しがあって牧師となったと信じて疑わないのだから。

しかし、そこに人間的考えが入りこんで来るのも事実で

彼が、息子の告白を聞いてまずやったことは、この問題にかかわったことのある他の教会の牧師や長老の意見を聞いたことである。

そして、けつろんは矯正施設コンバーションセラピーである。

その決定の場には、母親は入ることは出来なかった。

アメリカ人の真の姿とは

全てがそうだとは言わないが、かなり保守的である。

男尊女卑とまでは言わないが、根本主義の教えでは、極端な言い方だが女性はあくまで男性の為にあると考える。

それは、聖書で男が一人でいるのは良くないと神様が男性の体の一部から女性を作ったとあるからだ。

バプテストの教会では、牧師となれるのは男性だけである、女性は説教いわゆるメッセージすらすることができない。

また、教会の役員も婚姻した者という制約を設けているところが多い

これだけでもいかに、アメリカ人という者が保守的であると言えるのではないか。

全てのアメリカ国民がバプテストと言うわけではないのですが。

アメリカ国民の精神構造を考えた時、その底流には、こうした信仰による考えが非常に影響していると考えられます。

あなたの知らないアメリカを覗いてみませんか?

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