問題の根は深い児童への性的虐待
カトリック協会の聖職者による児童への性的虐待が問題になったのは、2002年アメリカ合衆国のメディアが大々的にとりあげたのがきっかけである。
ちょうど、マイケル・ジャクソンの少年に対する性的虐待疑惑と重なる頃だろうか。
それまではそのようなことは無かったのかと問われれば、言葉が悪いが見て見ぬふりをしていただけである。
社会が、児童への性的虐待という問題に目を向け始めただけのことである。
作品は、2018年にフランス・ベルギー合作で、フランスでおきた神父による児童(少年)への性的虐待事件「ブレナ神父事件」を映画化したものである。
カトリック教会でおこりやすい事件
カトリックでは、聖職者は妻帯を許されない、その根拠となるのは、新約聖書第一コリント7章8節のパウロ記述によるものである。「次に、結婚していない男とやもめの女にいいますが、私のようにしていられるなら(独身)それがよいのです」(新改訳聖書より)
かたや、プロテスタントの教会では、聖職者いわゆる牧師は妻帯を許されている、というより積極的に勧められている、その根拠となるのは旧約聖書創世記2章18節の記述による。「その後、神である主は仰せられた。人が一人でいるのは良くない。わたしは彼のためにふさわしい助け手を造ろう」(新改訳聖書より)
この事一つをとってもカトリック、プロテスタントと同じ聖書信仰にありながらこうも違うのである。
いまここでその是非を問うつもりはないが、少なくても今回の問題においては非常に重要な要素であると言わざる終えない。
つまり、カトリック教会でこの問題が多く起きるのは、孤児院や学校、神学校など司祭や修道者、施設関係者と子供たちが共同生活を送る施設で多く起きてます。
つまり、作品にもあるよに、少年を性的対象とするのは女性の代わりという要素も強いのです。
とざされた、男だけの世界では、おおようにしてそのようなことが起きます。
日本でも、仏教の世界では、衆道と言ってそれが奨励された時代が長かったのです。
それが、行われなくなったのは、明治維新以降の話で、廃仏毀釈により仏教の力弱めようようとした明治政府により、それまで妻帯することは女犯という罪と考え、妻帯しなかった僧侶に妻帯を進めたからです。
それでも、第二次世界対戦前まではその傾向は色濃く残っていたようですね。
水上勉の小説で、筆者の幼少期を綴った作品の中にその様な描写がでて参ります。
ですから、カトリック教会の様な世界では起きるべくして起きたことだと推測されます。
ましてや、地中海文明は古代から少年愛を賛美してきた歴史があるのですから。
いままでは、ただ見て見ぬふりをしてきただけということでは。
今後、この問題はどんな展開をするのでしょう
間違いなく、時代は児童に対する性的虐待に厳しくなております。
しかし、その様な性的嗜好をもったものは、子供と接することのできる職業、つまり学校教師、スポーツクラブのコーチ、聖職者になろうとします。
聖職者が職業というのはおかしいですが、少なくとも子供と接する機会が増えるのはたしかで、そうした性的嗜好をもったものは意識的にも無意識的にもその様な道を選択する傾向が強いのです。
ですから子供の側でもその様な出来事をふせぐ教育が必要かと。
また、聖職者や教師はその選別の段階でセクシャリティーのチェックも必要かと。
ただ、その辺はプライバシーがからんでデリケートな問題になると思いますが。
少なくとも問題を起こした教師なり、聖職者は子供と接する職業につかせるべきではないでしょう。
そして最後に、この問題で深く傷を負った方たちが声をあげて本作品が完成したわけですが。
間違った方向性であったにせよ、その時受けた愛情により人生を支えられたという例もあるということを付け加えておきます。
そういう人達は、決して声をあげることはありません。
人間の性というものは、摩訶不思議でわからない部分もあるのです。
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