かつて新橋演舞場を爆笑の渦に巻き込んだ藤山寛美と松竹新喜劇。時は移り人々は、爆笑しなくなった。笑いの質が大きく変わったのだろうか、趣味趣向の多様化とでもいいますか、それならいいのですが、どうも頭を使わない笑いの幼稚化が起こってるのではと。
藤山寛美が元気だった頃の松竹新喜劇
それはそれは、人気の劇団だった。
昭和40~50年代の東京公演は、毎年7、8月の二か月連続公演で、チケットはすぐ完売。
わたしが、舞台で藤山寛美をみたのは、昭和49年(1974)松竹新喜劇の舞台ではなくて。
7月の歌舞伎座の猿之助公演。
『滑稽俄安宅新関(オドケニワカアタカノシンセキ)』で、新橋演舞場での松竹新喜劇公演が終了後、人力車で、歌舞伎座に駆けつけて、親友の猿之助の舞台に、友情出演。
花道に、彼が出てくると、歌舞伎の世界とは確かに異質ではあるけれど、独自のオーラがあった。
当時の新聞批評は、あまり好意的ではなかったけど。
藤山寛美のお客に対する笑いの姿勢は、これでもかと言うほど伝わってきた。
そう、爆笑という言葉もこのころから使われただろうか。
寛美の哲学は、木戸銭をもらったらその倍、三倍笑わさないと次は来てもらえないというもので。
彼は、自らの劇団でも、その姿勢を貫いた。
その彼の三十三回忌追善公演。
時代が変わって、今の時代にあらためて松竹新喜劇を見る。
場所は、以前から変わらず、新橋演舞場。
さすがに、二が月連続公演は打てないのだろう、7月だけの公演。
改めてみると、以前とは世の中の笑いに対するとらえ方が変わった感が。
寛美の時代は、昭和の日本の元気な時代。
とにかく爆笑が求められた時代。
寛美の時代以降、漫才ブームがあり、やがて笑いの方向は吉本新喜劇へと。
では現在はというと、笑いの質の細分化とでもいうのだろうか。
それぞれの年代、志向にあわせた笑いが求められている。
漫才師のオール巨人が、今の若い人の笑いの感覚がつかめないと漫才コンクールの審査員を降りたのがいい例である。
どの年代にも言えることは、昭和の時代の様な爆笑が求められていないことだろう。
そう、そんなに笑いに没頭できる、そんな時代ではないのかもしれない。
ちょっと寂しい気がするのだけど、致し方がない。
松竹新喜劇は、残って行けるのだろうか。
お客の年齢層は、70代、80代が中心だろうか。
そう、かつて昭和の時代に新喜劇に通った方々が、昔を懐かしむ様に再び訪れているのです。
観客も高齢となられてるのと同じように、劇団員も70代や80代が多い。
そんな劇団が、今日まで活動を続けているのが驚きだ。
出し物も、当然昭和に書かれた作品が多い。
今日との解離は致し方のないこと。
それでいて、この劇団が消滅してしまうのは、悲しい。
現在公演が続けられているのは、それなりに集客力があるからで。
とはいっても今の時代には、地味な演目だ。
今は、とにかく見た目に明るく楽しく、それでいてきらびやかな舞台が求められてる。
しみじみと考えるのではない、劇画的で視覚に訴える舞台が、もてはやされる。
松竹新喜劇も、そのように変わったほうがいいのだろうか。
いや、いままでの財産を大事に、あくまでも庶民の悲哀と笑いの世界の追求でいいのでは。
時代にのこされようと、かたくなな面があってもいいように思うのですが。
それでいて、僅かに現代が入ってくれば、活性化するのでは。
かえって、幼稚化した現代の笑いの中で、意外と見直される時代が来るかも。
今の時代には、貴重な笑いであることは、間違いない。
松竹新喜劇公式サイト:https://www.shochiku.co.jp/shinkigeki/
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