マーティンスコセッシ監督『タクシードライバー』孤独と向き合うとは

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1976年米国公開作品

あまりにも有名なスコセッシの作品です。

主人公のベトナム帰りの孤独な青年の物語。

作品を今日もう一度見直してみると、最初は、肥大化した自己愛の招く悲劇として、作品を論じようと思ったのですが。

ベトナム戦争帰りの青年の物語となると、とても私なんぞの手におえる作品ではありません。

しいて言うならば、精神に傷をおった青年の悲しい物語としか言い様がみあたりません。

主人公の抱える孤独

これがひしひしと伝わってきます。

ひとは、孤独になることを避けます、それは、意識的にも無意識的にも。

しかし、孤独を知らなければ、本当の自分に出会うこともありません

孤独の中でこそ自分の弱さあるいは人間という者の弱さを知るからです

ほとんどの人は、孤独になろうなどとはしません、辛く寂しく、そして、見たくない弱い自分に出会わざるおえないからです。

世の中には、孤独に向き合わなくてもすむ娯楽にあふれてます。

ですから、ほとんどの人は自分に出会うことなく人生を送って行くことになります

孤独と対峙してしまった不幸

主人公は、社会的交わりに障害を感じていたのだと、それはベトナム戦争の経験が大きく彼の人格に影響したと思います、

不眠症に悩み、タクシードライバーと言う他者とのかかわりの少ない世界でしか存在できない。

おのずと孤独と対峙する場面に追い込まれてゆきます。

あらゆる悩み、苦しみそれらに答えを出すこともできずに、悶々とする日々。

やがて負のエネルギーは、彼の人格のキャパシティーを超えてこぼれ出します。

そして、耐えきれなくなり爆発してしまうのです

孤独とは時間をかけて向き合うもの

ひとそれぞれ大人になってゆくときに、孤独というものと出会っては離れ、又出会い、それは、あたかも学生が夏休みがあって冬休みがあるように、その人の心の成長に合わせて、向き合うのであれば、しやわせな人生だと。

しかし、この主人公のようにある時一遍にそれらと向き合うとそれは悲劇です

ここに、主人公のベトナム戦争の傷跡が大きくかかわってきます。

平時でも、大人になるという事は大変なことなのに、そこに戦争の傷跡が加わっては、心を病んでゆくだけです。

そこに、この作品の主人公の悲劇があります。

あの時代、ベトナム帰還兵の抱えていた多くの問題、いまも解決されたのでしょうか。

作品をみてるとそんな思いが膨らんできます。

平常心ではいられない今日だからこそ

世界的ウィルスの感染で、先の見えない昨今ですが。

失われたものは、もう元には戻らない。

新しい生き方を模索してゆくしかない。

そんな時、作品の主人公のような孤独の絶望に陥ることが無い様に。

決して私たちは、戦争というような傷跡を抱えているわけではないのだから。

いままでの私たちのやり方のどこが悪かったのか、ではどう生きてゆけばいいのか

一人一人が自ら答えを出さなくてはいけない時代だと

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