華やかな舞台の裏にあるもの
映画『タイ・カップ』(原題Cobb)
”1920年以前のデッドボール時代を代表する選手の1人。ジョージア州の出身であったことから「ジョージア・ピーチ(The Georgia Peach)」のニックネームで呼ばれた[1][2]。1909年にはMLB史上唯一の打撃全タイトル制覇を達成。ピート・ローズに破られるまでメジャーリーグ歴代1位の4191本の安打を打ち、通算打率.366で首位打者を12回獲得するなど数々のMLB記録を保持している。”(ウィキベディア)より
言わずと知れたアメリカの野球史に輝くスター選手であり、アメリカ野球殿堂入りの第一号選手の一人です。
それとともに彼の評は、「最高の技術と最低の人格」「メジャーリーグ史上、最も偉大かつ最も嫌われた選手」とも言われております。
作品は、タイ・カップの伝記を書くために彼に雇われたスポーツ記者アル・スタンプ(実在の人物)の目を通してえがかれた、タイ・カップの真実の姿ともいえる内容です。
野球自体アメリカで生まれたものですか。ヨーロッパの様に貴族の趣味という趣はどこにもなく、泥臭く描かれております。
メジャーリーグは本当に子供の夢の場所なのか
作品を見ていると、そんな思いが強く浮かぶのですが。
華やかな世界の裏にあるドロドロしたものが見え隠れします。
その昔、プロ野球を「職業野球」と呼んでいた時代があったのですが。
まさに、見世物としてのスポーツの世界を垣間見る思いです。
まだ、「職業野球」と呼んでいた時代は、まだましだったというか、あくまでもお仕事でやっているという冷静さが何処かあったように思うのですが。
昨今ん野球も含めてスポーツ全体が華やかにもてはやされすぎのように思えるのですが。
本作品を見ると、華やかな裏には影があると疑いたくなります。
1920年の話ですから、100年も前の話を現代と比べるのはおかしいと言われるかもしれませんが、プロスポーツという見世物である以上本質は変わってないのでは。
まあ、タイ・カップがそんな人間になってしまった理由も作品中でも明かされてはいるのですが。
それは、あくまでも個人の事情でしょと言わざる負えません。
スポーツがもてはやされすぎているのでは
昨今そう感じるのは私だけでしょうか。
東京オリンピックも開催されるかどうかわかりませんが。
どこか、お祭り騒ぎと勝負の勝ち負けにこだわるスポーツの祭典としか思えないのですが。
アマチュアリズムという言葉が死語となって久しいですが。
オリンピックもプロの参加が認められ、商業主義が全面に出てくる時代。
嘆かわしいと思うのは私だけなのでしょうか。
金メダル取ればいくらで、銀メダルだとこれ位と報奨金が出る時代ですから、選手は勝ち負けにこだわります。
以前、プロの参加は認めずアマチュアスポーツの祭典と言っていた頃が懐かしいですね。
試合が終われば、お互いに健闘を称えあう、勝者は敗者に気遣い控えめに勝利の喜びを表す、勝負はある種時の運、また互いに置かれた立場や境遇うが違うのだから、今日はたまたま私が勝ったというような謙虚さは遠い昔の話になってしまいました。
今は、勝者ははずかしげもなく勝利の雄たけびをあげる、まるで、自分が人生の勝利者であるかのような、その脇でただうなだれるだけの敗者。
そんな光景をまのあたりにすることが多いのでは。
炎天下で野球をするという愚行「甲子園」
いまや、日中40度に達することのある日本列島。
その中で、野球をしなければならない理由はどこにあるのだろう。
夢の甲子園、高校球児の憧れ。
しかし、冷静になってください、今甲子園に出場するチームの選手を見てください。
とても、高校生には見えない鍛え上げられた肉体をしております。
それは、練習の賜物と言えばそうなんですが、朝から晩まで野球漬けの日々を過ごし、筋トレに励み、過酷な練習に耐えて出場を勝ち取った、いわばプロの高校生の集団です。
監督は、甲子園出場請負人。
それでも、甲子園は特別なものなのでしょうか、なぜ、野球だけが高校生スポーツの中で特別扱いなのでしょうか。
不思議なことだらけなのですが、今まで築いてきた伝統とドラマが変革を望まないのでしょうか。
甲子園球場でなくても、8月にやりたければドームでもいいのでは。
スポーツの在り方に冷静になろう
コロナ禍でもあり、今まで通りのやり方が継続できない時代。
そんな時だからこそ、もう一度スポーツの在り方を考えるいい機会では。
スポーツを食い物にするのは、プロにまかせて。
プロの世界とは、どんなものかこの作品を見れば一目瞭然、アマチュアスポーツは勝負にこだわらず、楽しむもの。
勝ち負けはあるのは仕方ないですが、そこだけにこだわるのはいかがなものか。
憧れの世界の現実を垣間見る本作品です。
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