2019年に90歳でこの世を去った映画監督アニエス・ヴェルダ、ヌーヴェル・ヴァーグの祖母と言われる彼女の晩年の二作品、衰えを知らない創作への意欲、みずみずしいその映像、映画を愛した彼女の映像に対する情熱を改めて感じさせる珠玉の作品
『ジャック・ドゥミの少年期』
「シェブールの雨傘」など数々の名作を生んだジャック・ドゥミ監督の少年期を妻であるアニエス・ヴェルダが映像化したもの。
第二次世界大戦中を中心としたフランスの映像ですが、戦争による殺伐感はありません。
それよりも、ジャック少年の思い出のアルバムとでも言うべき作風です。
映像というものに好奇心をいだきそれを膨らませてゆく少年の姿が、印象的です。
家族の愛情を受けて、伸びやかに成長するジャック少年の思い出がみずみずしさを感じます。
ただ、映像の端々に老年になったジャック・ドゥミが重ね合わせるように出てくるのですが。
人間誰しも老いてゆくものなのですが、時というものの残酷さを感じます。
『落ち穂拾い』
ミレーの落ち穂拾いの絵画を思い出すのですが。
現代版落ち穂拾いとでもいいますか、フランスの農村部が舞台です。
元来日本の整然とした稲田と違い欧州の麦畑は、もっと大雑把で、畑に種をばら撒き、育った麦を柄の長い窯鎌でかってフォークで集める。
当然集めきれなかった落穂がでるわけで、それは誰がとっても構わないという取り決めが古くからあったようです。
当時、『旧約聖書』の「レビ記」に定められた律法に従い、麦の落穂拾いは、農村社会において自らの労働で十分な収穫を得ることのできない寡婦や貧農などが命をつなぐための権利として認められた慣行で、畑の持ち主が落穂を残さず回収することは戒められていた。
ウィキペディアより
というわけで、伝統的に欧州では、収穫の済んだ農作物は、誰がとってもいいという慣例があり。
映画では、おもに野菜や果樹園、あるいは養殖場で台風などにより岸に流れ着いた牡蠣などを集める人々が出てきます。
アニエス・ヴェルダはそんな人を映像に収めてゆきます。
やがて、農作物に限らず、都市部でゴミをあさり生きている人々に場面は移り変わります。
それは、レストランから出る廃棄物だったり、市場からでる売れ残りだったり。
日本だったら、なんとなく生活に行き詰まった感があるのですが。
まるで、当たり前のようにゴミで暮らす人々が映し出されます。
消費を美徳とする社会もあれば、逆の世界もあるという感で。
日本という狭い世界に生活していると味わえない、感覚の違いというものを感じます。
最後に取材する青年が印象的でした。
彼は、大学で修士課程を終えたインテリですが。
徹底的に金を使わないというか、市場の廃棄物で食事をし、粗大ごみから生活必需品をあつめる。
それでいて、彼の住む共同住宅の移民にボランティアでフランス語を教える。
そんな彼の嬉々とした姿を見てると。
物に溢れた、物に振り回される自分の生活というものをつくづく顧みてしまいます。
何が大事なのか見失っている感が湧き上がってきます。
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