『ミッドナイトスワン』 トランスジェンダー役草彅剛の怪演。

映画『ミッドナイトスワン』のチラシポスター映画館

トランスジェンダーという難しい役どころを草彅剛は見事に演じきった。なをかつ叔父として恵まれない姪の成長期に深く関わるという難しいところではあるが、さすが演技には定評のある彼そこにトランスジェンダーとして生きる者の悲しさを浮き立たせてくれた。

草彅剛のトランスジェンダー役がいい。

主演草彅剛の映画『ミッドナイトスワン』監督内田英治が、脚本、原作小説も執筆しました

内容は、育児に問題があるシングルマザーに育てられ、心の成長が一筋縄で行かない思春期の少女の成長期です。

そこに、トランスジェンダー役の草彅剛が関わってゆくのですから。

物語としては、興味を引きますよね。

ただでさえ、難しい年頃の少女に叔父である草彅剛が絡んでゆくのですから、低予算映画としては見せ場たっぷりといった感じです。

しかし、それらを見事に成功させたのは、草彅剛の熱演によるところが大きいのでは。

トランスジェンダーという自らのセクシャリティーと戦っているのに、難題が降り掛かってくる。

それらと、逃げずに向き合って行く姿がすがすがしいです。

最初は、少女を持て余すのですが、主人公がやがて人生の目的という大命題に少女を立ち向かわせる姿に感動します。

少女の成長記

心と体の成長が一致しない思春期、ましてや家庭環境に問題があると、話ははこじれてしまう。

人間、特に思春期などというデリケートな時期では、なおさら依り何処となる所が必要となりますね。

そこが、あって初めて、外の世界で自分を試してみることができるもので。

それがない、あるいは十分でないとなるとどんなことになるか。

つまり、自分を認めてくれる場所がないわけで、自分というものが確立されてない年頃となると、自分に価値を見いだせなくなってしまう。

ましてや、自らの存在を邪魔者のように扱う環境だったら。

内のストレス、外のストレスに耐えきれず、自らをの存在は不要な物と考えて、自傷行為に走るのもうなずけます。

そんな、難しい問題に、トランスジェンダーの親類が深く関わってゆくのだから、見るものを引きつけるのもうなずけます。

その前提には、主演草彅剛の力量があるのが絶対条件になっているのですが。

トランスジェンダーとしての悩み。

映画『ミッドナイトスワン』の一場面

LGBT 、トランスジェンダー、ジェンダーレスと時代は個人のセクシャリティーを尊重するかのよな風潮ではあるが、現実はそう簡単ではない。

ドラマの中でも、草彅のセリフに「なぜ、自分だけがこの問題でこんなに苦しまなければならないのか」と絞り出すような言葉が聞かれる。

彼(彼女)の場合、自らの性に違和感を覚えているわけで。

つまり、体は男性だけど、心は女性で、自らの男性として構造に違和感を覚えているわけです。

たとえば、ゲイではあるけれど、自分が男性であることには違和感がないというケースもあるわけで。

この場合、あくまでも性的欲望の対象が同性というだけで、同性愛でありトランスジェンダーではない。

極端な言い方をすると、異性愛のふりをして生きて行くことも可能なわけです。

社会生活の中で大きな不自由や差別を受けたくなければ、そのように生きてゆく事も可能なわけで

ただ、主人公のような場合、自らの性に違和感があるのだから、それを取り除くには、どうしてももう一つの性に変わらなければならない。

そうすると、女装やあるいは性的適合手術、ホルモン注射による体の改造となるわけで

つまり、外の世界にたいして、常にセクシャリティーを発信し続けるわけで

当然そこには、偏見や好奇の目が向けられるわけで。

絶えず、それらと戦い続けなければならない。

そこに、主人公草彅剛の嘆きのセリフが効いてくる

まして、中年も過ぎようとしている、オカマと呼ばれるものの嘆きが伝わってきて悲しい。

惜しいかな、ラストに向かって劇画調になってしまう。

この作品に限ったことではないのだけど、日本映画の最近の傾向というか。

作品自体をドラマチックにしようとするあまり、仕舞が甘くなるというか。

どうしても劇画調になってしまうのが惜しい。

他国(特に韓国など)でもその傾向は感じるのですが。

現実の世界が、平和になったことで、もはやドラマチックな展開が期待できない。

それは、それでいいことなのですが。

映画の世界で、あまり劇画調のラストというのは、今ひとつ真実味に欠けてしまうのも確かです。

草彅剛の熱演が秀逸だっただけに、それだけが残念です。

映画『ミッドナイトスワン』公式サイトhttps://midnightswan-movie.com/

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