「寄席から笑いが消えた」というと大げさですが、コロナ以降なぜか、大笑いをする噺家に巡り合わない。感染を気使ってという事ならわからないでもないが。何か違うとみんな古典のお話で、聴衆に聞かせようとする。私が望んでるのは、理屈などいらないおかしい話。
落語が芸術になる日。
もともとは、庶民の憩いの場、人目もはばからず、大口開けて笑い転げた。
昭和の寄席は、そんなところだった。
かつて、三遊亭円歌が歌奴と名乗っていたころ。
「山のあなたの空遠く」という詩の下りを使って、「山のあなあなあな・・・」と連呼して話が前に進まない。そんな新作落語がヒットしたことがある。
何度聞いても、同じ「山のあなあなあな・・・」と連呼するところで大爆笑したものだ。
そう、あの頃は落語とは笑うための物。
極論だが、そんな意識があった。
古典をやるにしても、まくらで強烈な時事批判を盛り込んだり。
いい意味で、ある種の毒気みたいなものがあったのだが。
最近は、そんな噺家になかなかめぐりあわなくなった。
コロナ禍だからなのか、大口を開けて笑ってはいけない。
そんな、お達しが出ているのではと感じる番組だった。
鑑賞したのは、七月新宿末廣亭下席昼の部。
そこそこの出演者なのだが、誰一人として大笑いする演者は、いなかった。
新作をかけるものもほとんどなく、古典落語オンリーともとれる内容。
古典がいけないといっているのではない、ただ現代とはあまりにも遊離してしまっているのだ。
まあ、世俗とは離れて、まったりした時間を過ごすためと思えば、そんな楽しみ方が、あるのだろうが。
一般に、上方落語は滑稽話、江戸落語は人情噺と言われている。
滑稽話は、人間のある種本質を突いてくる鋭さがあるのだが。
人情噺は、類型的な登場人物とお馴染みの情に絡めた情けのお話。
まさに、お決まりのとでもいいますか、本当に人間ってそんなに情け深いのと、ひねくれた私はうたがってしまう。
新作をかけることの難しさ。
現代は、多様化の時代。
笑いも多様化し、昭和の時代の様に大人から子供まで同じように笑い転げるなんてことはない。
子供や若い人の笑いには、今の時代アニメや劇画が入ってこないとならないし、そうなると年寄りはついていけない。
さらに、スマホをどう笑いに結びつけるかだ、スマホに限らずパソコンやタブレット、それらを使ったSNSをどう笑いに結びつけるかが、新作に必要になってくる。
となると、話は簡単ではない、どこかの年齢層にターゲットを決めないと笑いは取れない。
となると、古典にと言う流れになるのだろうか。
噺家が、我々から遊離して人間国宝を目指しているかのように感じてならない。
すべての噺家ではないけど、そう感じる方もいる。
江戸弁という特異な言葉
本当に、かつて人々は、江戸弁なるもので、会話をしていたのだろうかと、ふと思うことがある。
落語家の人達は、確かに楽屋のYou Tubeなどでは、江戸弁を使っている。
しかし、それは職業だからである。
それ以外で、江戸弁なるものの片りんを聞くことができるのは、三社祭などのおまつりで、イキでイナセな江戸っ子を演ずる人達だけではないだろうか。
それとて怪しいものである。
どうも江戸弁とは、われわれ子供時代昭和の漫画や怪獣映画に登場するヒーローのごとく彼らの真似をした。
それと同じで、落語の中のヒーローの使う言葉を市井の人達が真似していたにすぎない。
そう言ってしまうのは、言い過ぎだが、そう思えてならい。
方や、上方落語の言葉はいまでも、街中で、それもきれいなイントネーションで喋る人に出会うことがある。
江戸っ子と粋がる人が、どこか滑稽に思えてしまう。
新宿末廣亭のクラウドファンテング
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長引くコロナ禍で、入場者の減少で存続の危機にあります。
都内の寄席は、老朽化の進んだところも多く、これも寄席の抱える問題でもあります。
特に末廣亭は、建物も古く、昔からの雰囲気を残した良い寄席なのですが。
観客の現状もさることながら、設備にも問題があり、とくに空調は、音がうるさいですね。
時には、演者の声が聞きとりずらかったり。
本来静寂の場面などは、ほとんど不可能な状態です。
存続の危機なのですから、改築は期待できなく。
なんとか、どんな形でもいいですから残って欲しいとおもいます。
どうか、寄席が多くの庶民の肩肘張らない憩いの場所でありますように。
一部の重箱の隅を突っつくしたり顔の通の物で終わってしまうのは、もったいないのですから。
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