昭和を代表する異色の歌舞伎役者
決して彼が特殊な個性をもった役者というわけではありません。
ただ、彼は歌舞伎界では名門と言われる家柄ではなかったこと。
そして、父親の二代目市川猿之助を若くして亡くしたことが、その後の彼の人生を大きく変えてゆきます。
歌舞伎界で後ろ盾を失くすという事は、いかに不幸なことか。
冷や飯食いと言う言葉が適切とは言えなくても、明らかに冷遇されます。
それは、見た目にはっきりと表れるように、いままで衣装を整える化粧をする、その化粧台が隅っこのほうにさせられる、いい役が回ってこない。
そして、三代目市川猿之助はその憂き目を嫌と言うほど味合うことになります。
嫌な役はことわった、やりたい役が回ってくるまで。
彼の貫いた姿勢です。
当然出番は極端に減ってゆきます。
大御所の一座からは、いくつも誘いの言葉があったのですが、彼は断り続けます。
やりたい役が、こないから。
自主公演を何度となく行うも、採算に合わず思うように行きません。
歌舞伎と言うものは、オペラと同じで非常に大掛かりなものです。
出演役者をそろえるのも一苦労ながら、大道具・小道具、下座音楽、出し物によっては、義太夫、長唄、常磐津、清元とそれぞれプロをそろえなければなりません。
つまり、一か月間約20公演近く行って、採算をとるものですから、自主公演となるとそこまでは長くできません。
彼にとっては不遇の時代が続きました。
転機となった1968年(昭和43)国立劇場公演
この年国立劇場の要請で、彼は通し狂言『義経千本桜』大詰「河連法眼奥庭の場」いわゆる「四の切」で、復活させた「宙乗り」で喝采を浴びます。
いわゆる、歌舞伎のケレンという気をてらった演出方法で、観衆の度肝をぬいた。
それ以来、彼は早変わりや宙乗りの演目を多く手掛けます。
それは、彼が気をてらったことで客を集めようとしてると、旧来の歌舞伎ファンや大御所の役者からは、揶揄されます。
しかし、彼の芸は超一流である。
歌舞伎は、あくまでも興行であるから、客が来ない事には話にならないのである。
松竹にある程度守られている役者とは違う。
彼は、あくまでも自分のやりたい役を演じたいのだ。
その為には自らの一座を構えて、興行として成り立つ他ない、だから、早変わりも宙乗りも必要なので、明治以前にはさかんであったものを復活させただけだ。
自らの一座を持つことの苦労。
彼は、自らが名門の家柄でないこともあるのか。
一座に多くの国立劇場養成所の役者をたくさん受け入れます。
そして、力のある者には役を与える。
他の一座では、考えられない事。
やがて、一座はさらなる観客をつかむために「スーパー歌舞伎」なるものを始める。
初期の代表作は「オグリ」だろうか。
これを歌舞伎と言えるかどうかは、何とも言えないが。
歌舞伎云々というより、一つの出し物としてみれば、十分楽しめる。
当然興行的にも成功するのだが。
この流れは、現在四代目市川猿之助も受け継いで『ワンピース』を上演を覚えている方も多いだろう。
古典歌舞伎とは一線を画すものだが、この一座はとにかく養成所出資者が多く、常に興行的に成功しないと明日はない、という危機感があり、それが芝居にも表れ、他では味わえない緊張感が舞台にある。
忘れられない1974年(昭和49)歌舞伎座公演
中学3年の私が、初めて三代目市川猿之助に出会った公演。
公演の途中で劇場内に入ったのだが、いつもと雰囲気が違っていた。
入ったのは3階席、その頃は歌舞伎は冬の時代というか、観客が今ほど多くなかった、特に3階席は半分も入っていればいい方と言う感じなのだが。
平日にもかかわらず、8~9割埋まっている、観客はいつもより庶民的な装いの人が多い。
掛け声が熱い、女性もいる、歌舞伎では女性が掛け声を掛けるのは控えるのが暗黙の了解なのだが。
熱心なファンが多いというのがその時の印象。
演目
昼の部 1) 源平布引滝
2)黒塚
3)弁天娘女男白波
夜の部 1)鳴神
2)蜘蛛の糸宿直噺
3)ひらがな盛衰記
4)滑稽俄安宅新関
わりと古典的な作品が並んでいる。
ファンサービス的なのは、夜の部滑稽俄安宅新関あたりか。
友情出演で、同月新橋演舞場で公演していた松竹新喜劇の藤山寛美が、演舞場の芝居がはねた後出ていたのも懐かしい。
どの舞台も思い出深い。
「源平布引滝」で二代目助高屋小伝次が、主役の猿之助を上回る掛け声を受けていたのを思い出す。
舞踊「黒塚」で外人の女性が、熱狂(さわぎたてるわけではないが)しているのが、伝わってくる。
「弁天娘女男白波」猿之助には珍しい、世話物だが、別に彼は、世話物が不得意なわけではない。
その後あまり世話物を取り上げなかった彼だが、それは、この時は、助高屋小伝次のような、いぶし銀のわき役が一座にまだいたという事だと思う。
世話物は難しく、まず江戸弁が出来ないと、そして所作(動作、しぐさ)
こればかりは、生まれて幼少期から叩き込まれなければ、養成所研修生卒ではそう簡単に本公演には乗せられない。
だから、猿之助が「スーパー歌舞伎」に活路を見出そうとしたのもわかる。
正にこの月は、猿之助が丁寧に古典に取り組んだ公演だったのだろう。
素晴らしい舞台だった。
昭和の名優、カリスマ性をもち独特の口跡。
私にとっての宝となった公演だった。
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