ウィルスの前になすすべもない日常
いくら科学技術が発達した今日でも、私たちの日常はウィルスによってズタズタにされている。
そんな今の時代を象徴する作品が、『アウトブレイク』である。
ただ、コロナウィルスより遥かに致死率が高く感染力もはるかに強いのだが。
私たちを苦しめているコロナウィルスは、真綿で首を締めるようにじわじわと忍び寄ってくる。
どちらにしても、新種のウィルスに対していかに人間が弱い者かを思い知らされる。
人生も後半戦に入り、かなりたつが、こんな経験をするなどと想像もできなかった。
映画の世界が現実となるのである。
それも戦い方もよくわからず。
映画の中ならダスティンホフマンの様なヒーローが人類を救ってくれるのだが。
現実社会は、そうも簡単には行かない。
しかし、そんな中でも我々は生きて行かねばならないのだ。
コロナウィルスとの戦いは、長期戦の様相をていしてきている。
つまり、我々の生活様式や習慣も変えざるおえない。
ある意味生き方を変えなければならないのである。
言葉で言うほど簡単ではない、生き方を変えるなどとは本来無理なこと、つまりいままで積み上げてきた物が否定されたり、変更を余儀なくされたり。
それも、自分だけでなく家族もさらに社会全体も。
そんなとき、大事になるのは、指導者だ。
われわれは、未来から学ぶことはできないが、過去から学ぶことができる。
そんな思いを新たにさせてくれる映画がある。
『硫黄島からの手紙』
2006年米国作、監督クリント・イーストウッドの作品である。
硫黄島は第二次世界対戦の日本軍の戦いの中でももっとも過酷な激戦である。
5日で終わるだろうといわれた戦いが、36日にもおよび死傷者数が、日本軍よりもアメリカ軍の方が多かったのである。
ほぼ壊滅的打撃を受けていた日本軍には、もはや硫黄島に増援や救援を送る余裕もなく、孤立無援の戦いが作品に描かれている。
監督は、ダーティハリーの愛称の刑事役で有名なイーストウッド、監督になっても、なかなかの作品を作ってくる。
2016年の『ハドソン川の奇跡』、2019年『運び屋』辺りが私の好みで、御年89歳(1930.5.31生)とは思えぬほど勢力的に作品を作り続け、とくに晩年の作品は、すばらしい。
あのイーストウッドがよくこの作品『硫黄島からの手紙』を撮ってくれて感謝に耐えない。
『硫黄島からの手紙』を見てて思うのは、国を誤った方向に導いた結果の一番の犠牲者は誰なのかということだ。
つねに民衆、市井の人たちがその代価を払わされるということをつくづく考えさせられる。
しかし、その指導者を選ぶのもわれわれ庶民、市井の人々なのだ。
第二次世界の教訓として、勝ち取ったのが主権在民ではないのか。
今の指導者達で本当に良いのか。
今回のコロナ危機のなかで、もう一度考えたほうが良いのではないか。
首相は本当にわれわれのことを真剣に考えているのだろうか。
コロナの感染の疑いがあっても満足に検査もうけられない、検査の相談の電話さえつながらない。
医者がいないわけではない、検査の窓口がないだけだ。
何で、こんな簡単なことで命が危険にさらされなければならないのか。
あまりにも馬鹿馬鹿しい。
どうして、感染したらスムーズにこういう経路で治療が受けられるという道が示せないのか。
呆れてものが言えない。
首相はきれいな言葉だけ並べて、中身が伴ってない。
東京都知事とて似たようなものだ。
オリンピック延期が決まるまでは、ほとんど発言すらしなかったのに。
延期が決まったとたん、ステイウィークとか聞こえのいいアドバルーンだけあげて、われわれの身になること何をしてくれたのだろう。
次の選挙のことだけしか頭にないのではないか。
しかし、彼ら指導者達を選んだのも私たちである。
とにかく、選挙に行こう、投票率が50%そこそこではどうにもならない。
せめて70%位にはならないと日本は変わらない。
さらに一人一人、吟味してわれわれの代表を選ぼう。
そうすれば、政治家も国民の声を無視した政策はできないはずだ。
「硫黄島の戦い」のようにならないためにも。
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